自分はmixiもtwitterもFacebookも、やってることは全く一緒だと思っています。思っているというか、感じます。
で、自分が言いたいのは、「精神的な欲を満たす行為は、ルーチンになると長続きしない」、ということです。
それは「人間関係に飽きる」からです。
これはもう完全に感覚だけで言っているのですが、mixiのメインターゲット層である日本の若者は、「人間関係が恒常安定化した状態」に長く浸かることに慣れていない。
日本社会というものは、小学校、中学校、高校、大学…と数年スパンで人間関係が強制的に刷新されるシステムになっており、それはリアルだろうがwebだろうが同じだろう、という推論です。
なので、数年レベルで続く人間関係は一度清算したいという本能が働くのではないかと。
じゃあ、webで人間関係を清算するにはどうするか?
もちろん別サービスに移行すればいいだけの話です。
先日、次のような記事があった。
松島さんは、これまで週1、2回スーパーで購入していた480円の刺し身を購入できなくなり、果物も100円のバナナしか買わなくなった加算廃止後の厳しい生活実態を吐露。友人に旅行に誘われても断っているといい、「惨めな気持ちになる」と述べた。
痛いニュース(ノ∀`) : 生存権訴訟 「旅行の回数減らした」「480円の刺身が買えない」「子供の散髪は年数回」 - ライブドアブログ
以前の生活との比較に主眼がおかれているようにも見えるが、ポイントは「惨めな気持ちになる」というところだろう。やはり相対的な基準こそが問題なのだである。他者と比較して十分に与えられない状態というのはつまり、相対的な剥奪を受けている状態なのだ。
このことからわかるのは、すべての人が満足する状況というのは、いまやあり得ないということである。いくら人類が栄え、人々が富み、トリクルダウン効果によって生活水準の最低ラインが向上し、誰しもが食うには困らない状況が実現したところで、相対的な差は厳然と存在する。
この相対性に対する絶対化は、情報通信技術の発達によって、(相対的に)貧しい人たちが富める人たちの生活実態を把握する手段を得た時点で不可逆的な流れとなったと思う。情報通信技術が発達した豊かな社会であるほど、格差が問題視されるのだ。つまり、この先いくら経済が発展しようと、生活が良化しようと、格差の問題が解決される可能性はまったくない。
最近、ベーシック・インカムなる社会制度が注目を浴びているようだが、すべての人が最低限の生活を保障されるということは、その生活をしていては差異を確保することができないということである。結局我々は、同制度の導入前よりも更に労働に従事することになるだろう。
"星先生は、何度お会いしても最初のうちは初対面のようにいつもはにかんでいました。そのうちに打ち解けてくるのですが、その様子が久し振りに会えて嬉しくて嬉しくて思わずしゃべる声もうわずってしまったように聞こえるので、だんだんこちらも楽しくなってきます。
でも話が一段落ついたところで、僕に対してさえも敬語をちょっと使われ、その瞬間すっとある一定の心地良い距離感が保たれます。
星先生の話はおもしろいのは勿論ですが、ギャグの突飛さには笑うのを忘れてただ感心してしまうばかりでした。
一時期、夏に仲間達と伊豆の別荘に行くことが恒例になっていたことがありました。星先生の別荘も近くにあり、たまたまその日に先生が滞在されていたので一緒に食事をしたことがありました。
食後ゆっくりと酒を飲みながら富田勲のシンセサイザーでドビッシーを大音量で聴いていました。その夜は風もなくきれいな月が雲のない空に浮かんでいました。高台から眼下に広がる林のむこうに見える海はキラキラと輝き、右の方からうねるように降りてきた青黒い稜線が、その海に最後は垂直に落ち込んでいます。あまりにも音楽にピッタリの光景に全員黙って聴き入っていました。
演奏が終わって顔を上げた星先生の目にはいっぱいの涙が浮かんでいました。
そして「こんなに感激したことはない」とつぶやいていました。
月明かりの中、宴会は続き泥酔した星先生は二人に両脇をかかえられてお帰りになりました。
泣いている星先生を見たのは我々だけではないでしょうか。過大音量のためスピーカーが一個焼き切れたこともあって忘れられない夜でした。
"